2025-10-16#掌編小説

老いた妖精

ある夏の午後、導かれるようにその藪へと分け入った。私は十歳だった。草木の踏み跡をたどって、薮を奥へと進んでいった。帰れるか心配になりながら、足は止まらなかった。木々をかきわけて進むと、やがて空き地に出た。真ん中あたりで土が盛りあがっていた。近くまで歩くと、小さな洞穴が見つかった。そこで私は老いた妖精と出会った。

その洞穴は、大人がひとりが腰を下ろせるくらいの深さだった。日中でも薄暗く、湿った土の匂いがした。隅には石でできた台座があり、煙草と灰皿が置かれていた。土の地面に座ると、きまってその妖精は現れた。彼はしゃがれた声で早口で話し、私に煙草の火をつけさせた。煙は穴の入り口から、ゆらゆらと流れ出た。

妖精は私にとって、本当に話のできる相手だった。いろんなことを、ふたりで語りあってきた。学校や家の話、友人や恋人のこと、将来への期待や不安。言葉にならないものを、めぐるように話しつづけた。彼はいつも、最後まで話を聞いてくれた。終わると感想を言ったが、結論めいたことは言わなかった。「それはこういうことなんじゃないか」と言ったかと思えば、「いや、そうではなかろう」と翻した。

そして洞穴から帰るときはいつも、ひとつだけお話を聞かせてくれた。どこかの時代の、遠い国の物語だった。だいたいはその日の話題と繋がりがなかった。ただ、話を聞いていると、心がじんわりと温かくなった。終わる頃には外が暗くなり、「またね」と言って、私は洞穴をあとにした。帰り道で振り返ると、やさしく煙が揺れていた。私はこんなふうに生活の裏側で、妖精とともに年を重ねてきた。

洞穴につづく藪はだだっぴろく、入り口を見分けるのはいつも難しかった。しかし注意深く歩けば、必ず誰かの踏み跡があった。その洞穴は、何人かの手で静かに守られていたのだ。誰かが吸い殻を片づけ、新しい煙草を足していた。私も家のものをくすねてきて、台座に置いて帰った。自分で買えるようになると、小遣いをはたいて持参した。

ときおり、洞穴に先客がいることもあった。そんなときは薮を戻り、河川敷で時間をつぶした。待ちくたびれて、そのまま帰ることもあった。それぞれにとっての、妖精との過ごし方があったのだろう。私たちはお互いを尊重していたし、他人のことを詮索しなかった。そして、私はこの場所のことを誰にも話さなかった。

妖精は両儀的な存在だった。幼い私の前で煙草を吸ったし、賭け事を持ちかけたり、猥雑な話をすることもあった。物語もまた、感動するものばかりではなかった。悲しい結末や、危うい思想を含むこともあった。ただその語りは、いつも優しさを基調としていた。まっすぐに私へ向けられていた。その語りに身を委ねるたびに、やわらかいものが心に積もっていった。

妖精のことをどうしようもないやつだと思うこともあった。ただ、私にとって師のようでもあった。そして、心からの友人であった。大人になるにつれて数は減ったが、故郷を去るその日まで、私は何度も洞穴を訪れた。最後の日は、明け方までふたりで煙草を吸った。そして妖精は、最後の物語を授けてくれた。

その妖精からメッセージが届いたのは、社会に出て数年が経った頃だ。私はすぐに、新幹線で故郷へと向かった。季節は冬に近づいていた。昼過ぎに街に着き、河川の方へと歩いた。しばらく見ないうちに、駅前の個人商店はずいぶん減っていた。私はドラッグストアで煙草を買った。

早足で歩きつづけるうちに、いつもなら藪が現れるあたりまで来た。だが、その藪はどこにも見えなかった。見渡す限り、草木は刈られていた。視界は遠くまで開けていた。何が起きたのかを予感した。確かめるために足を速めた。足裏の感触は、記憶とは違っていた。

妖精と過ごしたその土地は、駐車場になっていた。アスファルトで塗り固められ、ゲートとカメラが設置されていた。黒くなった地面に、私は立ち尽くした。目を瞑って、老いた妖精を待った。しかしどれだけ待っても、彼は現れなかった。

私は道を戻って土をすくい、駐車場の隅まで運んだ。火をつけた煙草をそこに置き、しゃがんだまま両手を合わせた。心のなかで「バイバイ」と呟いた。そして妖精のために祈った。いろんな記憶があふれてきた。彼のしゃがれた声が、頭の中で響いていた。

そのとき、背後で車が止まり、人が降りる気配がした。足音が迫ってきて、すぐ後ろで立ち止まった。振り返って見上げると、警備員が私を囲んでいた。私はその様子をじっと見上げていた。頭上の空には、煙草の煙がゆらゆらと昇っていた。



夏木 絃

note で小説を公開しています。

よろしければフォローお願いします。

noteを読む

X で更新情報を発信しています。

よろしければフォローお願いします。

Xを読む